栗林は福島第一原発事故から10年を経た2021年、原発の問題を土台にした新たな作品「元気炉」を発表した。志津野は写真家として世界中を旅し、その記憶の断片を紡いだ映画「Play with the Earth」を発表している。アーティスト・栗林、写真家・志津野としてそれぞれの表現がありながら、多様な仲間とのチーム活動を続ける二人。仲間たちと共に立上げた「CINEMA CARAVAN」は、来年には国際展に参加するという。個々の表現の中に、チームとしての活動の根っこに何があるのか。現在も福島に通い続けている二人に話しを聞いた。
前編:自分の体験が自分の真実 - 情報を再構築する「旅」
■ 知らないことを知る旅「WAVEMENT TOUR」
二人が知り合い、原発へ関心を抱くことになったきっかけは、東日本大震災よりも前、2006年に志津野が逗子公民館で核燃料廃棄処理所問題を扱うドキュメンタリー映画「六ケ所村ラプソティ」(監督:鎌仲ひとみ)を観たことだった。海を生活の場とする仲間たちとともに観た映画は、それまで無関心でいた放射能や原発の問題を初めて自分のこととして認識するに十分なインパクトがあった。まずは現地を見なければ自分の言葉では語れないと、六ケ所村に行って驚いた。自分に何ができるのかと試行錯誤する過程で、現在まで続く仲間たちと出会ってゆく。3.11以前の日本では表立って原発に疑問を呈するメディアはほぼ皆無。あらゆるメディアがタブー視する中、動いたのはサーファー誌だった。六ケ所村とつながる海を生活の場とするサーフィン仲間たちであれば、この問題を自分のこととして捉えられる。彼らは、もっと事実を知り、知らないことを学び、意識を共有するために、旅 『WAVEMENT TOUR』を実施した。2007年の夏、千葉・茨城・福島・宮城・青森を北上し、それぞれの地で上映会、キャンプ、トーク、音楽をしながら語り、勉強していく2週間の旅だった。
■ 批判に時間を割くより、生活基盤の半径5Km, 10Km を変えていく
志津野たちは原発の反対運動に突っ込み200万人の署名を持って国会に行った。しかし何も変わらなかった。撮影した写真や映像を発表しようとしても、会場確保すら難しい現実を知る。それなら自分たちの責任で自由に表現できる基地を作ってしまえと 2009年 仲間たちと海辺の映画館 「CINEMA AMIGO」を立上げ、3か月後には逗子海岸映画祭を企画、2010年4月 第1回を開催した。この一連の活動がCINEMA CARAVANの幕開けでもあった。「反原発」とか「人はこうしなきゃいけない」ということでは、なかなか人は変われない。批判に時間を割くより、自分たちの身の回り、手の届く半径5Km、10Kmを変えていく方が効くと考えた。この転換は、以後の表現、活動の根幹となっていく。
■ 「YATAI TRIP」
栗林は、志津野と共に「CINEMA CARAVAN」を立上げるのと時を同じくして「YATAI TRIP」を始動する。「境界=border」を旅するプロジェクトだ。人間と自然、植生、動物のなわばり、民俗文化、国と国など、境界は様々に存在する。YATAI TRIPは、そうした境界で屋台を開き、移動する。屋台は、現地で手押し一輪車と木材を調達して作る。食べ物やお酒を揃えた屋台には自然と人が集い、話し、食べ、歌い、酒を酌み交わす。何もないところに”場”を作り、現地の人と語らいならが見えてくる風景は、情報として持っていたその場所のイメージ、概念上の境界とは全く異なる姿を見せる。2009年8月、韓国の南北国境の旅から始まったYATAI TRIP は、シンガポール、ネパール、スペイン・バスク地方、インドネシアなど世界中を巡っている。この YATAI TRIPにも、志津野は初回からカメラマンとして同行している。
何度目かの「YATAI TRIP」ネパールから帰国した翌日、東日本大震災が起きた。二人はすぐに、六ケ所村や福島の様子を確かめに向った。以後、現在に至るまで定期的に通って見えた風景や旅の経験が、それぞれの作品、活動に強い影響を与える。 後編に続く・・